先日のブログで祖父(母方)の事を書いたところ 「祖父の足跡をたどって」
親類から、「あんな資料がネットにででいたのか」 「伯父さんの事を思い出し涙がでた」 という電話が掛ってきた
と母が言っていました
これはさすがに驚きました、親戚連中 俺のブログ読んでたのか(笑)
これは父方の祖父、つまり新井家具 創業者 新井 甚作 についても書かないわけにはいかなくなりました
正直、母方よりは平凡というか・・・・(笑) あんまり書くことない(汗)
新井家具の創業者 新井 甚作 は埼玉県 は比企郡 の古くから続く 豪農の次男として生を受けました
祖父の父、つまり曾祖父は先祖から受け継いだ広大な田畑、山林を売りながらの遊び暮らし
祖父がよく 「親父はろくでもない男やった」 「死ぬ間際に、自分は親から甘やかされ、金儲けの手段を知らなかった」
と言い訳がましく、親父としては尊敬できなかった、と私に包み隠さず話してくれました
そして金はある、ヒマもある、とくれば博打に女遊び・・・・・・・・お妾さんの数は両手で足りなかったとか
そして時代は明治から大正、農地改革だとか何とかで、所有地の多くは抱えていた小作人 に分配され
かなり縮小されてしまいました、それでも今でも埼玉の祖父の生家に行くと、所有地の広さに驚くのですが・・・
ここからが祖父のかっこいいところ
曾祖父の死後、遺産の分配を放棄() 親父の残した財産などいらん! と言うこと?
家出同然に、東京の指物師に丁稚奉公に入りました
そしてあの関東大震災を経験
その時、ちょうど便所に入っていたので助かった (狭くその割に四方に支柱があるため) と何百回も同じことを聞かされました
建物は全壊し、同僚なども亡くなったそうで、やはり強運の持ち主だったのでしょうか ウンが良い(笑)
その後、ちょっと不明確なのですが確か桐ダンスの職人に奉公し、向かいの商家で女中奉公していた祖母と
恋愛結婚 お見合い結婚全盛の時代にじーさんも隅に置けません(笑)
ちなみに祖母も強烈なキャラで、「猛女」「烈女」 という呼び方がぴったりの人で、数々の逸話を残しています、また機会があれば祖母についても書きたいとおもひます
二人してコツコツためた資金と、財産全部を相続した兄たちから餞別 (今の価格で10万円くらい)をもらい
大阪で独立開業!!
祖母と二人でリヤカー引き引き、家具の卸し売りがメイン その時の屋号は 「新井たんす店」
ある夏の暑い日、祖父が配達の途中、サイダーを飲んで一服していると
目の前に止まっている、どこかのリヤカーの荷台に、当時高級とされた木材 (これも何の材だったかは忘れました)
が無造作に放り込まれているのを見て祖父は尋ねました
「これどうするんですか」
先方の答えは 「捨てます」
ギェ~ もっもったいない!!! しかしそんな素振りをおくびにも出さず祖父は
「これもらっていいですか?」
「こんなもんで良けりゃあ、あげるよ」
そして人足さんはさらに 「こんなもん野田阪神 の空き地にナンボでも捨ててある」・・・・・・・・
そして祖父は高級部材をタダでゲット
それで下駄箱の脚などを製作し、卸し売り
当時、木地のままで仕入れし(無塗装) それを塗装加工し大阪の大手家具店に卸売りしていましたから
「新井の下駄箱は材がよくて安い」 と飛ぶように売れたようです
祖父は良く言っていました、商売のタネは本当は何処にでも転がっている、それをアンテナを常に張り
取り込むことができる奴が成功するんや! と・・・
そして順調に売り上げを伸ばして・・・・・・・・しかしそう簡単にはいかず
取引先の当時の大手 日〇家具に不渡りを掴まされ、連鎖倒産
一家はたちまち貧乏のどん底に・・・
六畳一間に祖父母と父、叔母の四人で暮らし、一週間かつお節の振りかけご飯だけ
今の我々には想像もできない話を子供の頃、何度も聞かされました
でも捨てる神あれば拾う神あり
祖父の愚直なまでの誠実さが幸いしたのか、時代背景もあるのか、以前と変わらぬ取引を続けてくれる
メーカー、取引先のおかげで段々と業績、信用が回復
再起を果たした祖父は、屋号を 「新井家具店」 と改め、現在のオレンジロード
大阪市西区 南堀江の立花通り に小さいながらも自店舗を築くまでになりました
話はそれますが、その当時から現在の枚方家具団地 の新井家具 本館オープンまで
世話になった恩義ある、祖父の人柄に信用取引、正に「信用」だけで取引を行ってくれたメーカー、取引先の数々
残念ながらその多くは現在、廃業、倒産してしまったところも多いのですが・・・
祖父は何も言いませんでしたが (私が子供だったこともあると思う)
先代(親父) からは事あるごとに聞かされていました
何があっても、当時世話になったメーカー、取引先には不義理をしてはいけない! と
実名を挙げてもいいでしょう
枚方家具団地に第二期として出店する際に、一期参入の家具店より様々な妨害、圧力にも関わらず
「そんなもん関係ない!」 と品物を提供してくれた 「フジシ」 をはじめ、大谷悦造商店
マリアンチェアー(廃業) 、アイビーベッド(廃業)
特にベッド館で言うと、ベッド館立ち上げの際にアイビーベッドが提供してくれた数々の「好意」 は
今から思えば、亡き祖父が作ってくれた「信用」という草葉の陰からの援護射撃だったのでしょうか、 そうに違いありません
話しを祖父に戻しましよう
大阪の堀江、萱島に店舗を展開し、現在の枚方家具団地に出店を果たしたところで経営を先代(親父) に継承
会長として良い意味で影響力を発揮
しかし私が18歳 の時、癌を患い、入院生活
必ずしも、良い孫ではありませんでしたが、高校生の自分もなんとなく祖父の最後の世話をすることで
祖父の何かを感じ取りたいと考え、最後の数週間、時間を取っては日々衰えてゆく祖父の見舞いに出かけたのでしょうか
そんな気がします
そして誰もが近い将来の祖父の最後を覚悟した時、私は祖父の病室に二人きりでした
そんなとき、生命維持装置の元、息も絶え絶えの祖父が私に言いました
「わし、絶対退院して家に帰る、でも家に帰ったら新井家具から引退する」
そして数日後、無くなる数日前言いました
「わしは火曜日に死ぬ」 と
死ぬ十日前ですよ! 当時驚きました、病床で末期がんで、それでもこの人は現役のつもりでいたのか! と
そして退院するつもりでいたのか! と・・・・・・・どんだけ気力あるねん!!!
そして言葉通り、火曜日に静かに息を引き取りました
火曜日の夜にお通夜、よく水曜日は定休日です、つまり会社に迷惑をかけたくなかったわけですね
最後の最後まで商人であり続けた、穏やかな心と激しい魂を持ち合わせた明治男の最後でした